“ペンギンハウス”といえば、ミュージシャンじゃなくとも高円寺で知らない人はいるまい。そんな高円寺の代表的なライブハウスのひとつ“ペンギンハウス”がなくなってしまった。2020年5月末に閉店の予定が、都からの自粛要請のため、実際に店を開けていたのは3月末までだった。
店を解体する前の6月18日、店長のジミー矢島さんに話をうかがった。(全5ページ)
ーペンギンハウスがオープンしたのはいつですか?
ジミー矢島(以下、ジミー) 去年の10月が35周年だったから、84年かな?
ージミーさんはオープン当時からいらっしゃんたんですか?
ジミー オープンから2年くらい店長としていました。そのあと山梨のほうに引っ越して、ペンギンハウスには関わっていなかったんだけども、2011年のちょうどあの東日本大震災の直後に呼ばれて出てきて、翌年の2012年の4月からまたここで働き始めたんです。
ーペンギンハウスへ戻ってきたきっかけは?
ジミー 大震災があった2、3日後くらいに、ちょうどペンギンハウスでライブの出演が決まっていた。「どうする?」って聞かれたから「やるよ」って言って、東京に出てきたんだけど、電気の制限とかもあって街の中が暗くて、みんないろんなことで心がヤラレたみたいな、東京暗いなって感じがして。
ー光の暗さだけじゃなくて。
ジミー 当時、僕がいた山梨の八ヶ岳の連中は、震源地から遠かったっていうのもあるけど、停電とか、いろんな被害を蒙りながら、それでも明るく元気にやってたから、なんで東京はこんなに、みんな打ちひしがれて元気ないんだろうなって、気になって。ちょうど「こっち来ないか」って誘われていたから「こんなときだから行こうか」って、出てくることにしたんです。
ー話が遡りますが、ペンギンハウスができた背景というか、きっかけは?
ジミー ペンギンハウスができる8年くらい前から、すぐ近くで“猫屋敷”っていうちっちゃな、スペースがペンギンの半分もないような店をやってたんですよ。そこは僕と亜郎さんの二人でやってて、ライブもやってたんだけど、さすがに店が狭いし、バンド入れてとか、とても無理だったんで、「どっか大きいところがいいね」って話をしていたんです。そこで、ここの仲間のリーダーの仲田修子とバンドメンバーたちが、まず営業バンドで資金を稼ぎ、それで集まった資金で音楽の練習スタジオの経営を始め、それが軌道に乗ったところで、「じゃあ今度はちゃんとしたお店をやろう」と言ってペンギンハウスを始めたんです。
ー“猫屋敷”は漢字で?
ジミー そうそう、ちょっと名前にインパクトがありすぎて(笑)、お客さんも、なかなか癖のある人しか集まらなかったんだけど、この店を開くときは、なるべく誰でも気軽に入れるように、ちょっとライトなイメージの“ペンギンハウス”っていう名前に…
ーどうして“ペンギンハウス”にしたんですか?
ジミー どうしてなのかな? あの当時、ちょっとペンギンがブームになっていたんだよね。ペンギンカフェオーケストラとか、なんかあの、テレビのCMでも…
ー松田聖子の?
ジミー そうそうそう! あの時代だったから、なんとなくペンギンがポピュラーだった。
ー何かの曲からとったとか、そういう明確なものはなく?
ジミー そういうもんじゃないですね。だから、あの頃のブームに乗っかったというか(笑)
ーそうだったんだ(笑)
ジミー クセのない名前にしたから、わりと普通のお客さんが普通に飲みに来てくれた。最初は今みたいなライブハウスじゃなくて、ライブは週に1回くらいで、ライブ用の機材も、今と比べればシンプルなものだったんです。その当時はカフェバーブームっていうのがあって、なんかこう、ちょっと小洒落た感じの店で、料理にもこだわっていたし、カクテルとか出してて、当時はこういう店って高円寺にはあんまりなかったんじゃないかな。
ーオシャレな店だったんですね(笑)
ジミー 僕もスタッフもみんな白いシャツに蝶ネクタイして。
ーええええええ! そうなんですか!

↓2へ続く